【GP】Malaysian history 植民地時代 – Colonisation – Year6

※GP = global perspective(世界的視野)

  

息子たちのGPの授業は教科書が無く、学校で定められたカリュキュラムに沿って先生が指導をして下さっています。

マレーシア国内の、他のインターに通っている方々と情報交換をする中で、

GPは各学校、学習する内容は全然違うな・・・という印象を受けました。

 

マレーシアの歴史をざっくり

諸外国に狙われ、長い植民地時代を迎える前のマラッカ王国は

アラブ~アジア、極東アジア各地の香辛料・絹・麻・陶器などの交易を担う、海のシルクロード中継港として栄えていました

 

長男UがYear6でまず学習したのはマレー史」の中の「植民地時代」です。

まずはマレーシアの歴史をざっくりと。

HISTORY OF MALAYSIA in 12 Minutes

    

大航海時代 (The Age of Discovery)

では、マレーシアの植民地化が始まる16~20世紀前半の世界の様子とは?

World History The Age of Discovery in 5 Minutes

    

長男たちにもとても分かりやすかった記事はこちらです。

このような時代背景もあり、マラッカは列強諸国の力に飲み込まれてしまうのです。

 

マレーシア植民地時代(1511~1957)

Malaysia was once a colonised land.

1511-1611 Portuguese 

1641-1824 Dutch

1824-1942 British①

1942-1945 Japan

1945-1957 British②

①ポルトガルの侵略 – Invation of Portugal (1511~1611)

西洋の列強諸国が船で海を渡り、世界に広がる領土を奪い合う、そんな大航海時代。

大航海時代(だいこうかいじだい)とは、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポルトガルとスペインにより行われた。

出典:Wikipedia 大航海時代

当時、活気に満ち繁栄していたマラッカの富と、さらに貿易ルートとしての地理的優位性もあり、

1511年、ポルトガルは令名の高い Afonso de Albuquerque (アフォンソ・デ・アルブケルケ)を総督(王の代理)として、

17-18隻の船と1200人程の男たちをマラッカに送り込んだ。  

 

当初は「貿易の拠点として」要塞を建てたいとか、

布教活動の為に教会を建てたいのだが・・・と穏便に?

マラッカのスルタン(sultan=イスラムの王)に話を持ち掛けていたものの、

“No!”

と言われてAfonsoがしたのは・・・

力ずくで奪う!

結局これなんですね😞

 

After 40 days of fighting, Malacca fell to the Portuguese on 24 August.

40日間の戦い後、マラッカはついにポルトガルの手に堕ち、

そこから100年に及ぶ植民地支配をうけるのです。。

    

In order to strengthen and defend the Portuguese base,

Albuquerque built a fortress called A’Famosa between the high ground and the Melala River.

Stones from broken-down mosques and the tombs of bygone nobles were used to build the thick walls of the fortress.

ポルトガルの基地を強化し、守るために、アルバカーキは、高台とマラッカ川の間に

アファモサと呼ばれる要塞を建設した。そして、要塞の厚い壁を作るために、

壊れたモスクの石とかつての貴族の墓が使われた。 

 

当時絹やスパイス、香料、金銀財宝で繫栄していたマラッカ王国は列強諸国から狙われた。

さらに東へと勢力を拡大したい諸外国にとって、海の中継地点としてとっても魅力的。

そこに最初に手を出したのはポルトガル。

アフォンソ・アルブケルケ率いるポルトガル軍は、最終的には武力でマラッカを手中におさめることとなる。

   

①オランダの侵略 – Invation of Dutch (1641~1824)

ポルトガル帝国が世界中にその領土(植民地)を広げていくその陰で、密かに?勢力を拡大していたのがオランダ

まずはこの時代、どうやってオランダは力をつけていったのか?ということがポイントになります。  

  

キーワードは、世界初の株式会社『オランダ東インド会社(VOC)』の設立と、その成功です。

さらに詳しく・・・→世界初の株式会社「東インド会社」はなぜ誕生したのか? 世界史の窓オランダ東インド会社

  

それでは何故、オランダはマラッカを欲しがったのか?

当時のマラッカの4つの魅力。

●Spice ・・・To control the spice trade such as pepper, cinnamon, turmeric, paprika, etc..

(コショウ、シナモン、ターメリック、パプリカなどの香辛料貿易をコントロールするため)

●Power・・・It possess superior naval expertise,trades and territories

(優れた海軍の専門知識、貿易および領土があったため)

●Trade route・・・Control important trade route to the East, to balance the superiority of Arabs traders and Spaniards

(対アラブ貿易と対スペイン貿易の優位性のバランスをとり、東への大切な交易路をコントロールするため)

●Religion・・・To spread Christianity

(キリスト教を広めるため)

オランダ単独では成功しなかったポルトガル攻撃も、

ジョホールのスルタンとの協力によって、ついにマラッカを手中に収めます。

(オランダ人はジョホールのスルタンの権力を認めることにより、オランダ人がマラッカからポルトガル人を追放するのを助けた)

当時のマレーシア人はオランダのお陰で、マラッカを取り戻すことが出来たと思っていました。

一方オランダはというと、マラッカの占拠の後、オランダ東インド会社の元に独自の政府を作っており、

結果的にマラッカは、183年という長期間、オランダ人のコントロール下に置かれることになるのです。

  

ポルトガルが世界進出していく中、当時のスペイン王の嫌がらせににょり、オランダ人は香辛料を入手しづらい状況に。

「God created the world but the Dutch created the Netherlands」

(世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った)

という諺があるが、自国を自分たちの手で開拓していったオランダ人は、自分たちの手で自ら船でインドに上陸。

そこで、オランダ東インド会社を設立し、その成功は「オランダ黄金時代」を築いていくこととなる。

③英蘭協定締結 – Anglo-Dutch Treaty of 1824 – 1824年~

イギリスとオランダで締結された協定。

シンガポール・マラッカ・ペナンなどマラッカ海峡より東側(マレー半島)をイギリス領、

東インド・シンガポールより南側(インドネシア)がオランダ領となる。

    

④イギリス帝国 – British Empire (1824-1942)

ポルトガルやオランダの力が徐々に衰退していくと同時に、イギリスが世界で台頭します。

(この頃にはマレー半島全域がイギリスの植民地となっています。) 

  

Factors to the expansion of British Empire(イギリス帝国の拡大のファクターは?)

●Transportaion(輸送)

 ・・・New road(道路), new Railways(鉄道) and Steamship(蒸気船)の拡大。

    これによりindustrial goodsや労働者を運ぶ手段が出来、貿易が活性化した。

●Fierce competition with other European countries(他の欧州諸国との激しい競争)

 ・・・France, Spain, Portugalなど

●Maritime Expansion(海上拡張)

 ・・・島国であるイギリスの経済には、海上部門はとても重要なポジションにあった。 

ヴィクトリア女王 (1837-1901) の時代には、スズ(Sn)ゴムの宝庫であるマレーシアは、

イギリスにとって “Biggest Moneymaker”であり、とても重要な植民地でした。

  

The impact of British Colonialism イギリス帝国による植民地化の影響は?

  

Education System(教育制度)の変化です。

マレーシアの教育制度はこの時代に大きく変わります。

  

イギリスが来る前のマレーシアの学校教育は、宗教教育が中心のノンフォーマル教育でした。

ノン・フォーマル教育(Nonformal learning, NFE)とは、フォーマル教育(Formal learning, 学校教育)とは異なり、固定されたカリキュラム、シラバス、教育機関認証、卒業認定などが存在しない様々な学習状況についての緩い定義であり、OECDにおいても認識されている。

出典:wikipedia ノンフォーマル教育

イギリスの植民地となった後は、 

  

“English School”(イギリス)

“Tmail School”(インド)

“Chinese Vernacular school”(中国)

   

など、民族・目的に合った教育と学校が各地に設立されるようになります。

また、マレーシアの学校教育も大きく変わり、

  

“Malay Vernacular School”(マレーシア)

  

では、新しい教育制度の下、宗教教育だけではない広い分野の教育を受けられるようになりました。 

  

この時代の教育制度の変化が、現在のマレーシアに残る

・インターナショナルスクール(英国式)

・インド系スクール

・中華系スクール

・マレー系スクール

の基礎となっています。

“Education is used as a means of controlling the Malays. not to oppose its power and school is used as a special control tool.”

Ibrahim Saad, 1997 

この後、日本の植民地となるまでの間、マラッカはイギリスの支配下で急速に近代化が進んでいきました。 

  

大日本帝国の支配~再びイギリス植民地へ~は、続編、

WW1・WW2(第一次・二次世界大戦)にまとめようと思います。 

  

もう少しマレーシアのことを詳しく知りたい方。

WIKI INVESTMENTさんの『第1章 マレーシア-基礎知識』とても参考になりました。

  

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